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<豊臣秀次公らの墓がある>
高瀬川開削に伴い角倉了以が創建。
秀吉の残忍さと歴史の悲劇を語り継ぐ。
河原町三条の交差点のすぐ東にある。

住所 : 京都市中京区木屋町三条下ル石屋町114-1
付近の見所 :本能寺岬神社(土佐稲荷)



(撮影 : 2010年10月2日)

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瑞泉寺山門
瑞泉寺山門
「豊臣秀次公一族終焉之地」と刻まれた石柱
「豊臣秀次公一族終焉之地」と刻まれた石柱
境内にある「前関白豊臣秀次公御一族墓所」の立札
境内にある「前関白豊臣秀次公御一族墓所」の立札
境内はこんな感じ。
境内はこんな感じ。
「引導地蔵尊」地蔵堂
「引導地蔵尊」地蔵堂
瑞泉寺本堂
瑞泉寺本堂
豊臣秀次公と一族のお墓
豊臣秀次公と一族のお墓
秀次公と一族のために建てられた宝筺印塔
秀次公と一族のために建てられた宝筺印塔

瑞泉寺

賑やかな河原町三条の交差点のすぐ東、木屋町通りを少し南へ下ったところに、「豊臣秀次公一族終焉之地 旧三条河原跡」と刻まれた石柱のある瑞泉寺(ずいせんじ)があります。
瑞泉寺は、豊臣秀吉の姉の子(甥)の豊臣秀次の菩提を弔うために、角倉了以(すみのくらりょうい)によって建立された浄土宗西山禅林寺派のお寺です。
秀次は秀吉の養子となり、秀吉の後継者として関白になりますが、その後淀君(秀吉の側室)が秀頼を生んだため疎んじられるようになり、「謀反の疑い」を理由として文禄4年(1595年)に切腹を命じられます。さらに秀次の子女や妻妾たち39人が三条河原で次々と打首にされ、秀次の首とともに河原に埋められ、塚の上には「秀次悪逆塚」と刻まれた石塔が置かれ、往来する人々に「畜生塚」として見せしめにされることになります。
塚は鴨川の氾濫などで次第に荒廃してしまいますが、慶長16年(1611年)に角倉了以が高瀬川を開くとき、これを哀れんで塚を再建し堂を建てて「慈周山瑞泉寺」とした、というのがこのお寺の由来。瑞泉寺は以来400年間にわたり、無念の死を遂げた豊臣秀次と一族・家臣の菩提を供養してきました。
秀次のお墓は境内の一番奥の南西の角にあり、秀次公のお墓を正面に、共に殺された子女たちの墓石がその周囲に並ぶ形になっています。
あまりに悲惨な歴史の出来事に、墓前に手を合わせて祈る人々の姿は、今も絶えることがありません。